「古稀とはいえど・・・」
関東支部長野BL 清水 清一
OB会の皆様、在職中にお世話になった現役の方々、ご無沙汰しております。
現在、私は出身地の長野市で暮らしています。2008年に東京から当時の甲信支店に転勤し、
二年間の市場開発業務に携わり2010年の3月に62歳で退職しました。その翌月の4月から
「(一般社団法人)長野県産業環境保全協会」に環境アドバイザーとして採用されこの仕事を現在も
続けており9年目になります。長野県下、長野市から中南信の諏訪、伊那、飯田と中小企業の工場を
訪問し環境保全の課題解決のために指導助言をするという仕事です。環境保全といっても広範囲に
わたりますが、各分野の専門家などと連携しながら楽しんで取り組んでいます。
ふりかえれば社会にでて最初の約20年は試験研究や技術開発で技術屋としてのこだわりがありましたが、
その後、ドア外注管理、生産管理・技術、設計企画標準化、マーケティング、最後に市場開発業務など
広範囲にわたる職種を経験したことは技術屋一辺倒でくるより私の性格に合っていたように思っています。
別の活動としては長野市の環境審議会の委員として環境政策に参画したり、BBT研究会(ブレークスルー研究会)
に所属、これは定年退職したシニアの集まりです。何歳になっても知的好奇心を持ち続けようという主旨
に賛同し入会しました。内容は省エネ講座など環境支援の地域活動などです。
40年も県外に出ていたものとしてご近所の地域活動にも積極的に参加していますが
昔は賑やかだった
商店街が人通りのない寂しい街並みとなっているのは寂しく感じられます。それでも近くに昔馴染みの
小、中学校の同級生が居ますので50年ぶりの同級会幹事などもやらされるはめになりました。
現役の頃はあれ程熱心にやっていたゴルフの熱は醒めました。知人に勧められ同好会に入ってはいますが
もっぱら歳の若い仲間との飲み会が楽しみで参加しています。
体力が衰えたとき人は自分のそとにある自然のリズムや生命力に気づき、四季のうつろいに敏感になり
俳句や短歌に関心を持つようになるといわれますが、私も最近は俳句、短歌、川柳などの本を好んで
読んでいます。信州出身の小林一茶の生涯は若い頃江戸に出て放浪し晩年は故郷北信濃で暮らしましたが
最近、エコロジーの考え方の面で再評価されているようでなるほどと思っています。
またこれも定年後、大勢の人が好んでやるようですが庭木の世話や家庭菜園です。亡父の残した狭い庭ですが
植木類(黒松、百日紅、つつじ、柏、山茶花など)の世話。家庭菜園は、きゅうり、トマト、ナスが定番ですが
今年は初めて植えてみたプリンスメロンがよくなったのは驚きでした。しかしまだ素人、初心者の域を
でてませんというのが廻りの評価です。
現役時代の思い出としては、仕事で全国至るところに行ったことです。各地支店営業所での商品説明会、
新製品の取付工事立ち合い、クレーム対応、ドア管理で全国のSD業者。札幌から沖縄の全国の工場に数多く
行ったこと。もちろん仕事であるから観光とは違いますがそれでも南北に長い日本は、風景や風土、言葉、
人情の機微などそれぞれの地域で微妙に違うものです。海外に行けたことも忘れられません。
米国のシカゴでのUL耐火試験立合い、ニュージーランド国立建築研究所でのBS認証取得の為の5時間耐火試験
立合いなど、特に思い出深い経験です。特にニュージーランドには海外事業部門の故金沢茂氏と二人で
行きましたがその後、氏は早世されたのは忘れられない辛い思い出です。
古稀は七十歳。この言葉の出典は中国の詩人、杜甫の七言絶句です。唐の時代のこの詩人は若い頃から酒好き
ということで知られています。原詩は「朝回日日典春衣」の四行目の「人生七十古来稀」から古稀という熟語が
生まれたとのこと。今日では九十、百歳の人も多くて「七十歳」はまれではないことは自明です。
杜甫がこの詩を現役の48歳のときに作り本人は58歳で死んだのだからやはり時代はかわり長寿社会になった
ということでしょうか。
俳優の小沢正一が「老いと私」というエッセイの中でこう書いています。「毎日の暮らしのなかで老いをつくづく
感じるようになったのは七十の坂を越えてからである」。これから私も坂を越えたのだから益々、老いを感じる
ようになるのであろうことは間違いありません。現在は小人の悲しさでまだ若いと錯覚しているのかもしれません。
しかし古稀といえども稀でない時代になったのだからそれなりに無理をしないで日々のくらしの中で良く歩き、
好きなことをして健康で過ごしていきたいものと思っています。
以上
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