喜寿になって思う 「ツナミ」
七十七になってしまいました。高校の先輩である石川啄木と同様に雄大な岩手山(当時は2041mだった)を
仰ぎ見ながら小中学生時代を盛岡市で過ごしました。現在は仙台市でテレビを見ながら馬齢を重ねています。
東日本大震災時、避難した中学校のラジオから「仙台市の沿岸部にツナミが押し寄せ、住民が孤立している」
と幾度も流れていました。水も電気もテレビも無く「孤立ってなんだべ」と思いながら聞いていました。
この震災で宮城県石巻市、大川小学校の生徒等から多数の死者が出た。父兄等から先生や学校の責任者が
追求され目下裁判中です。裁判官達も判決を前に現地を見に行ったという。裁判では消防隊がツナミ到達10分前
にはツナミが来ると触れ廻ったのだから先生達は生徒を安全地帯に引率できたと言うのです。
現在住んでいる町内会で当該小学校を訪問する事ができた。そばを流れる北上川は天井川となっており
凹地の底に学校があるという感じでした。その学校を設計した建築士がNHKでツナミは全く想定していなかった
と言っていました。しかも市の避難場所に指定されてもいた。当日は雪も散らついており大勢の生徒を先生が
冷静に誘導できたとは思えない。ツナミが来ると言われても茫然と立ち尽くすしかなかったのではあるまいか。
岩手では子供の頃「大きな地震がおきたら必ずツナミが来る」と教えられていた。大川小学校でも避難訓練を
一度でもしていたら裏の山に移動でき死者もあれほど出さずにすんだのて゛はないか。ツナミが世界語になった今、
日本の裁判官があのような判決しか出せないのが残念に思うのである。この先沿岸部では学校の先生の為り手が
なくなりはしまいか。
今日もブツブツ言いながらテレビを見ている。
藤原 昭郎
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